* 資料室 *




くんっ、と中尉の踵が宙に浮く。

「もぅ…ちょっ…と…なの……にっ……やった!」

一番上の本棚のファイルの背に、彼女の指が届いた。
が、背伸び仕切れずに、指は離れた。

「やっぱり脚立がないと無理かしら」

言いながらも、また右手を伸ばす。
左手には何冊かのファイル。
この資料室内の必要な物のうち、低いところの物はさっさと取ってしまっていた。
あとは一番上の棚にもう一冊あるだけだ。
が、それが届かない。
何せ軍は男社会、設計時こういうところに気を遣うことはしなかったらしい。

「急ぐのにっ…」

悔しそうに唇を引き結ぶ彼女に、天から声が降ってくる。

「これか?」

彼女の真後ろから、手が伸びていた。
簡単にファイルを手にすると、彼女の抱えていたものの上へ重ねる。

見下ろす人物は、見知った彼女の上官だ。
逆光だが、陰の部分にもその漆黒の瞳は栄える。
艶めいた髪は、ただそれだけで色気をまとう。

「大佐…何でこんなところに…?」

突然のことに呆気に取られ、彼女はぽかんと見上げた。
まだ彼は逆光で、彼女を見下ろしたままだ。

「中尉が遅いから、様子を見に来たんだ。それに…」

彼は彼女の腕の中に納まっている、何冊ものファイルを指差した。

「それがないと書類が進まないのでね」

つまり、資料の必要ない分については、全て終ったという事らしい。
彼にしては珍しくいいスピードだ。
ここでそのペースを落とさせることは得策ではなかった。

「それは失礼しました。では、早く戻りましょ…っ、大佐っ!!」

目を大きく見開く彼女に反応し、彼はすぐに上を見上げた。
天井近くから降り注ぐのは、ハードカバーの資料の波。
それが、彼らを飲み込むように、ゆっくりと目に映る。
人間、こういう時の一瞬というのはやけに長く感じると、何かで聞いた事があった。
それは死ぬ前の一瞬に、走馬灯のように思い出が脳裏を駆け抜けるのに近い。
しかし、長く感じても動けはしない。

身体は動かない。

「ちっ!」

バサバサッ!!!

紙が大量に降り注ぐ間際、彼女の耳元で舌打ちが響いた。

「中尉、大丈夫か?」

そして、それよりももっと近くで、囁く声。
鳶色の瞳が見つけたのは、目の前の大佐の顔。
長い腕は彼女を囲い、離さずにいる。
彼女より高い位置にある肩が、がっしりと包み込む。

額からは、赤い糸状の血液がその長さを伸ばす。

「私より、大佐の方がお怪我をっ!」

懐から取り出した白いハンカチを彼の額にあてると、みるみるうちに朱に染まった。

「大した事はない、それより君は?」

そっと頬を撫でられ、彼女の動きが止まる。
漆黒の瞳が細められ、唇はきゅっと引き結ばれている。

「私は平気です…大佐が守ってくださったので」

二人で床に座り込んだまま、互いの視線を絡め取る。
彼の腕に、知らないうちに少し力が入っていた。
自然と彼女を引き寄せる。

再び腕の中に頭を預け、何も言わずに彼は包み込むように腕を回す。
彼女も何も言えなかった。
本当は言う事など山ほどあるはずだ。

『早く帰って、さっさと書類を片付けてください』
『何を調子に乗っているんですか』
『このままだと、残業になりますよ』

けれど、なぜか桜色の唇からは何の叱咤も飛び出さず。
呆れたものではない、かすかな溜息がこぼれる。
それは微量の色香を含んでいて。
しかし困った事に今日は仕事がまだ沢山残っていて。

仕方がないから、もうちょっとだけこのままでいたいと、彼は何も言わずに微笑んだ。






END



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